ただの趣味か――商業作品に見る価値論

創作の場において商業主義を絶対視するものは意外に多い。
例えば、ワナビなる言説がある。
主として文章の分野で商業作家を目指す(ワナ ビー)もののことを指して言う。
また、「〜で飯を食う」と言ったりもする。
無意識あるいは有意に、商業作品を同人、趣味的創作活動から一段、階層が高いものとみなしているのである。
しかし、
「よいものは売れる、だから売れているものの作家になりたい」
「より多くの人に対して創作を発表したい」
という理由で視野が狭くなっていっているとしたら、待ったをかけるべきである。
売れているものが、実際によいものであるかどうかの評価はここでは措いて、商業作品が犠牲にしているものに目を向けてみよう。
売るための努力によって当該作品の「商品クオリティ」が高いのは確かだろう。
だが、商品クオリティだけが作品クオリティの要素ではない。
むしろ、まったく無関係である――率直に言って。


時間に目を向けてみればはっきりする。締め切りに間に合わせるための制約の有無ひとつをとっても、個人作家は実に優位に立っているのである。
さらに重要な点として、趣味としての創作は明らかに自分の楽しみに直結している。
作者としての喜びの質が異なるのだ。

問題は趣味作家が、商業作品を目指してしまうことが多い、という点である。
自己満足できるのなら、問題ともならないが。

ただ、勘違いしてならないのは、売るために編み出された技法を軽視すべきではないということ。
さすがに「三点リーダは偶数個用いなければならない」などと、印刷製本のためのお約束を鵜呑みにする必要はないが、売るために生み出された文体、構図、他の表現には、それだけの力があるのである。
商業作品でないから表現を妥協できると考えるとしたら、それは作者にとっても、作者を含む読者にとっても悲しい事態であるといわざるを得ない。


ちなみに自分が商業作家を目指さないのは上の理由からではない。
「文章を売った代価で生活する」簡潔には「文を鬻ぐ」思考の文芸は、オワタにとっては文学への許しがたい冒涜なのだ。
事実、商業主義の台頭は、「近代、小説の時代」の落日を呼び起こした。
同じことは恐らく、ほかの媒体にも起こるだろう。

※商業に自分の作品が否定されることへの恐怖や、ワナビを見下した優越感が介在しうることは否定しない。馴れ合いが低レベルの自己満足を生むことも、認めずばなるまい。