世界観構築考


今日は世界観の話。


自分の書く文章は明らかな世界観のコンセプトがあります。
ああ、島京は違いますけど。あれはもともとの世界観があったものなのでね。でも、そのコンセプトは生きています。


ずばりそのコンセプトとは。


それは、「郷愁の中の未来」なんですね。


アプローチは二つ。


ひとつは、未来をその先の未来から過去として振り返るもの。
これは最初の未来を「その世界」としてもまったく問題はないです。
現代からすると未来なのに、郷愁の中に佇む過去。
それは出来事かもしれないし、人や世界のすがたかもしれない。
なにも特異なものはない。
ただ、郷愁の中に振り返られるものだ、というところがポイントなんです。


もうひとつのアプローチは、過去の時点の未来予想図。
今となっては過去にあるそれは、しかしながら、当時は「未来」だったわけです。
言ってみれば青写真の世界。
具体的にいうと、たとえば昭和43年を生きる人が脳裏に、あるいはもう少し現実的な形で考える2009年の姿。
たとえばその人の年齢、住んでいる場所、かかわる人々・・・。
この例の数字は実はあまり重要ではありません。
そもそもが想定された世界観のなかで時点設定としてそういう形になっているということです。


こだわりといえば・・・なんでしょうね、たとえば自分は綺麗なものばかり描くわけでは有りませんが、文章の質は譲らない。
譲れない線がくっきりとあるんです。それは「格調高い」文章かといいますとそうでもなく、端的に述べるなら品格でしょうか。
情景描写の書き手というようなアイデンティティ(笑)も、そういうところから出てきてるんですよね。
たとえば音楽が、たとえばアニメーションが、絵画が、同じ情景を表現できるものならば。
文章も同じ場所に立ち、同じものを描けるはずだと自分は思います。
もっとも、情景だけを妥協してないわけではありませんが。
そういう書き方をしていったときに情景が際立つというだけです。


一年位前かな、文の新海と呼んでくれとレスしたことがありました。(新海……新海誠。アニメーター)
もちろん本気でそう思っているわけではありません。自分も同じように、そういう伝え方をしたいな、とそう思う人だったんですね。
後輩から教えてもらって知った人なんで、にわかといえばにわかなんでしょうが。


そんなわけで、文章における自分の売りというのは、ストーリー展開でもなければ、キャラクター像でもなく、見せ方なのだということになります。
出来事と舞台と人間の見せ方。