恒星都市(創発板島京スレ投下分)

 東洋のダイヤモンド。
聞くからに陳腐ではあるが、それゆえに一層、人口に膾炙されたこの比喩。
今や23世紀を迎え、その異名は知らぬ人とておらぬ。
しかしながら、その都市は名実ともにそれを凌駕していた。
むしろ、陳腐な比喩そのものが言語の限界を持って示していたのだ。
まさしくそれは、ダイヤモンドであった。


青い星に翡翠の色合いを見せて横たわる秋津島、日本列島の中央に浮かべた、
なめらかな金属と珪素の織りなす天衝く結晶。
昼は陽光を反射して閃き、夜は内より眩しく白く、輝きは水平から地平に至るまであまねく照らす。
さながらアーク光にも似た、光輝の都市国家島京。
至高の人造宝石は今、自らの歴史を新たにしようとしていた。


 とはいえ、登場人物が揃うには、なお半世紀を待たねばならなかったのだが。
いつも演者の知らぬところで幕は上がるものだが、このときも例外ではなかった。
幕を引いたのは一つの偶然。
とはいえ、ひとつの偶然が決して必然ではない、と言い得る者がどこにいよう。
なんとなれば、喜劇には、そしてもちろん悲劇にも、脚本家がいるではないか。
登場人物であり観客でもある木偶たちのあずかり知らぬ場所に――。



 最初の演者が舞台に姿を現したのは2233年である。
そう、この年九月下旬、島京を台風、通称、三三島京台風が襲ったのだった。
日本へ上陸した台風の中では最低気圧、最高風速を同時に記録した台風になるのだが、
人ならぬこの俳優は発生当初はそれほど警戒されていなかった。

フィリピン東方に生を受けた彼女(そう、女なのだ)は、
通常の台風とほぼ同じ経路をたどって北上。
初期には中心気圧990hPaと特に見るものはなかった。


勢力が強まったのは沖縄南方海上でのことだった。
他に類を見ない超弩級の成長速度と規模が確認されている。
ここで中心気圧840hPaを記録、瞬間最大風速は134m/s、優に480km/hを越すと推定されている。
この年、海水温が平年より高かったことからある程度の成長は予測されていたのだが、
世界史上最強レベルの風速に日本と島京は色めき立った。


参考までに、21世紀にその名をとどろかせたハリケーン
「ザ」カトリーナの瞬間最大風速は78m/s、280km/hに過ぎなかったことは付記しておきたい。


日本国中が彼女に備えた。大戦後道州制を採用してからこのかた、
これほどの一体感がこの国に見られたことはなかっただろう。
各道、州においては買い占め騒動が相次いだ。
人間たちの騒ぎを余所に台風はゆっくりと勢力を弱めながら沖縄東方を北上、転向する。


このときの移動速度は時速10kmと、台風としては遅い部類であった。
同月27日には平均風速96m/sと――これは時速340km/hほどだ――勢力は弱まるが、
この時点でも史上最強の低気圧であることに間違いはなかった。
28日正午過ぎ、広大な暴風域に潮岬、洲崎が飲み込まれる。
29日未明、ついに三三島京台風が、かつて大島があった場所を通過して島京湾へ真正面から上陸。
長い惨劇の始まりだった。




 島京1300万と一般に言われるが、この中に狭山霧一は含まれていたかどうか、定かではない。
というのも彼は日本よりの密入国者――それ自体非常な困難を意味するのだが――であって、
戸籍を島京に置いていなかったのである。


彼は、否、霧一と呼ぼう、霧一は島京の摩天楼群の底に、二匹の猫とともに生活していた。
猫の名は朝霧、夕霧という。

底と言っても、海抜高度は80m。地上換算にして20階余である。
もちろん遥か上方へと建物群は絡み合い、
カーボンとガラス繊維の道路網をまとわりつかせつつ登っているのだが、この高さでも十分に島京湾は見渡せた。
外郭を成す建物群の窓から故郷を眺めるたびに、霧一は複雑な気分に襲われるのを感じた。


もちろんその気になれば文字通り結晶構造をもって作られた、
海抜高度1036mの島京塔の頂上へ登ることもできたのだが、彼はそんな気にはなれなかった。
それはひとつに、高いところへ登りたがるのは馬鹿と猫だけだという、
古い故郷のことわざのせいだったのかもしれない。
猫達も彼と同じ主義と見えて、むやみやたらと出歩いたりはしたがらなかった。
意気があったというべきか、類は友を呼ぶと言えば言いすぎか、
ともかく、一人と二匹は調和して生活していたのである。



 霧一の手が動くと、卓上に人影が浮かび、猫たちは毎度のように耳をそばだてた。
女性のバストアップ。流れだす音声。
「島京統治政府気象委員会です……」
無表情に朝霧を撫で、霧一はニュースに注意する。


「……温帯低気圧はフィリピンの東120kmの海上にあって、非常に速い速度で成長しています。
日本の気象庁提供のデータによると、今後さらに成長が予想されるとのことであり、厳重な警戒が必要とされています」


「台風だとよ、お前ら」
キャスターの立体映像を消す。
猫たちはどこ吹く風といった風情だ。
二匹は目をつぶって横たわっていたが、寝入っているわけではないことを彼は知っていた。


 
 整えられた抽斗からカードを取り出し、卓のリーダーへ乗せる。
キンと震えるような音がして、卓上には海底から頂点までの島京の全体像が浮かび上がった。


こうしてみると、島京というのは紡錘を突き立てたような形をしている、
と霧一は考える。
構造的にも外乱に影響されにくくはあるのだが、いかな紡錘形とはいえ、水面下に相当な重量がなくては安定しない。
釣りの浮きを想像すればわかるだろう。
むろんこの島は浮いているわけではなく、海底700mに突き刺さっている。
とはいえ、不安定な構造の弱点が解決しているとは言いがたい。


指を動かすと、表示されている立体コンソールをちょんと叩く。
外壁部が消え、骨組構造が、蛍光色のラインで宙に浮かぶ。
ハニカム系の構造。I型材の鉄筋構造部とH型材の海面地上境界層構造、そしてそこから天へと伸びる流線形の建物群。


それはカイロウドウケツを想わせた。
1000mを越す深海に生活する海綿である。それはこの都市と同様のガラス繊維の複雑な構造を生まれながらに持っている。
低温での硝子繊維形成を、人類はこの海綿から学んだのだった。
閑話旧題。


 
 霧一は抽斗からもう一枚取り出し、乗せ換えた。
今度は異なるフォーマットで、立体映像が浮かび上がる。
三行にわたって文字が記されていて、
それぞれ「島京可動化プラン」「潜水型パターン」「浮遊型パターン」と読めた。


もう幾度となく目を通してきた資料を、彼はまた丹念に見返す。
どれも、今でも机上の空論とみなされているものだ。
だが、一部トップレベルの研究者の中には、全精力をつぎ込んでいる者もいることを彼は知っていた。
第七層に鍵がある、というのだが、資料が残っていない以上、どうしようもなかった。
調査しようにも、有人層として稼働できるのは第二層のみとあって、
その先がどうなっているかは今では知る由もないのだ。



 霧一はシステムを閉じた。
彼の頭の中には、これまでに出たパターンとは全く異なる可動都市が浮かんでいた。
海面地上境界層から分離する浮遊案でもなければ、潜水型都市でもなかった。
そもそも、潜水艦化するには島京は少し巨大すぎた。
卓の上にある、別の物体を手に取る。
平たい長方体をした緑色のそれは、今では高値でコレクターたちがやり取りするようなメディア――。
紙の本だった。
もっとも、この本の場合はその中身自体も、普通の本とは比べ物にならなかったが。
これこそ、霧一の作成しようとしている計画の裏付けとなる、たった一つの希望だったのである。
島京の設計者たちが、そしてその裏で企業たちが目指した真の島京の姿、それは恐るべき内容の計画であった。
その時が近づいていることを知っている人間はごく限られていることだろう。
予兆は既に地下で起きていたが、大半の人間は無関係で平和な生活を送っているのだから。



夕霧が甘えた声で鳴いた。
食事をねだっているのだった。
例のキャスターが語っている。
「非常に大型で強い台風16号は、勢いをさらに増し加えながら北北東へ……」



翌日早朝、霧一は境界層まで降りていくことにした。


通勤者たちが続々と乗りこんでいく、工業区行きエレベータへ入る。
主に海抜150mまでは低所得層の居住区であることもあって、大きなエレベータは既に労働者でいっぱいだった。
かすかに甘い合成鉱物油の香りと、きな臭いようなオゾン臭が辺りに漂っている。
この都市はどこでも非常に明るかったが、エレベータですらこの例にもれなかった。
熱を発さない白色光源が、このガラスの箱を硬い色合いの光で包みこんでいる。


本来ならば、ほとんどここで会話が聞かれることはない。
だが、今日は違った。
「日本直撃は確実なコースだと言っとりますね」
「既にハリケーンで言うとカテゴリー5に入ってまだ成長を続けてるらしい、悠長にしてもいられないよ」
ざわつきはそこかしこに波紋を立てている。
それらの会話のうちの一つが、霧一の耳に引っかかった。


「最近おかしなことばかりだからなあ。発電区あたりも挙動が怪しいって聞いたし、台風までいかれてるっていうのか」
「なあに、島京だぜ?この辺じゃ強い地震なんて珍しくもないし、台風なんか毎年来てるだろう」
「今度のは桁違いだって言うぞ」


とはいえ、楽観的な見方が空気の大勢を成しているように思われた。
島京民には己の街への信頼と誇りを持っているものが多く、それは所得の高低とは関わりなく見られるものであったから、
それも自然な事といえただろう。
かつて大英帝国は世界に広がる領土を持って日の沈まぬ帝国を標榜したが、
「島京、ただの一都市にしてなお陽、沈まず」
とは、程度の差こそあれこの輝ける不夜城の住人たちが一様に抱いていた感慨の表明に違いなかった。


海抜0m、一階に到着すると、霧一は一人エレベータを出た。
背後にいぶかしむような視線も感じたが、気にとめない。
ジャンクメタルのタイルが敷き詰められた、無人の道を歩く。


「風が強いな」
ひとりごちた。
確かに、安定した強さで吹いてくる潮風からは、上層部のそれとは異なる湿度と圧迫感が伝わる。
未だ姿を見せない、沖縄はるか南方海上の台風が、あたかも降伏を促すかのように自らの威力を誇示しているのだった。
通常であれば、日本領海にも入らない台風の影響が島京湾周辺で見られることなどあり得ない。
事実、隔壁の向こうでは、打ち寄せる三角波の砕ける音が響いていた。
「波高は……」


ポケットから取りだした携帯端末スティックに触れると、メインメニューがドーム状に浮かんだ。
その一つに触れて表示されたデータに、彼は驚かされることになった。
2.5から3.5mだと?波防帯と同じ高さじゃないか。
天を見上げる。超超高層ビル――公式にこう呼ぶのだ――の先端は雲の上に消えていた。
流線形が特徴的な建物群はなお昂然と、来るべき敵を待ち受けているかに見えた。



とはいえ、彼は特に台風のためにこの階、海面地上境界層まで降りてきたわけではない。
いつの時代にも、光があれば影があるものである。
光、ことさらに輝けば、より一層闇も暗く蠢く。
島京の場合も例外ではない。
ここでも比喩的な意味で、海面下部分が影、海上部分が光となって相互に補完し合っていた。


 光と闇はせめぎ合う。一見無人のこの層で。
そこは居住区最下層部の、外見からは想像もつかないが確かに存在する半スラム部とも違っていた。
半スラム部は治安が若干悪いとはいえ、人間の住む場所なのだ。
だが、ここはそうではない。地上一階分だけの、無機質な光沢を放つゴーストタウンだった。
植物の姿すらちらほらとしかない。



無人のはずのここだが、最近頻繁に不審な動きが見られていたのだ。
霧一とて興味本位の行動ではなかった。
トップ企業連の手のかかったクェーカーが保っている秩序は、
地下にある何かを守るためのものに他ならなかったのだが、
最近、ことに奇妙な事態が続々と起きていることを情報は示していたのだ。


外部からの特殊部隊の関与も示唆されていたため、
民間人が――それも密入国者だ――公に嗅ぎまわるのは得策ではなかった。
だが、外側勢力が行動を起こすとしたら、台風や地震、その他の災害は好機になるのではないか。
そんな考えから、水際に特徴を読み取ろうとした霧一の行動だったのだが――。


「無駄に広いんだよ」
この人工都市の断面積がもっとも広くなるのは海抜0m階であったから、それは無理からぬことではあった。
彼は自分のバイク――フローティングシステムが開発されてすぐの時期に開発されたものだが、今でも十分通用する程度にチューンされていた――
に乗ってくるべきだったかとも思ったが、すぐにその考えを打ち消した。


有人層ならともかく、無人層で目立つべきではなかった。
この都市は基本的に統治機構の監視下にあるのだ。
企業連盟の手は故郷の官憲よりも速く長いことを、彼は知らぬわけではなかった。
霧一がビルの先を曲がったその時だった。
彼は細い路地の先に動く影を認めて、そばの壁に張り付いた。