ゲティア問題考

大学のレポートで、ゲティア問題のレポートが課せられた。
専門じゃないんでやっつけだが、この手のレポートに苦しむ大学生って多いんだよね。
ってなわけでブログにのせてみる。↓
超読みにくい(笑)


問題1 知識に関する基礎付け主義について説明しなさい。

知識に関する基礎づけ主義のもっともシンプルな形は、
知はより基本的な知識によって正当化される、というものである。

定式化するとこのようなものになるだろう。

イ:主体が命題Aの信念を持ち
かつ
ロ:命題Aの信念を持つことが主体において正当化されており
かつ
ハ:命題Aは真命題である。
ならば
ニ:主体は命題Aを知っている。

この知には幾パターンかが考えられる。
基礎づけ主義においては、より基本的な知識の正当化が円環状に巡っている場合であれ、確固たるものとしての認識として捉えられている場合であれ、知それ自体は他の知の裏付けをなくして存在しないとされている。
実際の知のあり方についての捉え方としての正当性を措くと、このような不可謬命題に基づく知の正当化過程には異論が存在するところでもある。(ゲティア問題)




問題2 ゲティア論文が提起した問題をめぐって論述しなさい。
 (その際、①ゲティア論文の内容の説明、②ゲティア論文が提起した論点の評価とその問題点、③その問題点の解決方法に関する提案、などを含めること。)



①ゲティア論文の内容

ゲティアは

1、古典的な知識定義を提示。(基礎づけ主義)

2、偽なる命題の信念を持つことが正当化される場合があると述べ、二つの事例をあげる。
 
 2.1「十枚の硬貨」
    スミスはA:「ジョーンズが就職採用される」という命題を信じる点で、十分な根拠を持って正当化されている。 根拠は、B:「採用者は十枚、硬貨をポケットに所持している」ということであった。しかし、採用されたのは、そんなこととはつゆ知らぬスミスであった。スミスも10枚の硬貨をポケットに所持していたのだ。このとき、Bは真であるが、スミスの思惑とは異なる仕方で真である。よって、スミスはBをイ:「信じ」ロ:「正当化され」、ハ:「Bは真である」。だが、スミスはBをニ:「知って」はいない。
  
 2.2「フォード」
     スミスはC「ジョーンズがフォードを持っている」という命題を信じる点で、十分な根拠を持って正当化されているものとする。 ところで、スミスにはブラウンなる友人がいる。彼がどこにいるかは定かではない。 ここで、スミスはD「ジョーンズはフォードを持っている。またはブラウンはバルセロナにいる」という命題を導き出す。ところが実際には、ジョーンズはフォードを持っているのではなく借りているのだった。そして、ブラウンはまさに、バルセロナにいたのである。このときスミスと命題Dについて、イ:「信じ」ロ:「正当化され」ハ:「Dは真である」。だが、スミスが信じていたのは並列命題の前半部、事実であったのは後半部であり、ニ:「知っている」を満たしはしない。

3、以上から、古典的な知識定義は「知」の十分条件たりえないと論じてゲティア論文は終わる。



②ゲティア論文が提起した論点の評価とその問題点
 
 残念ながら評価は非常に辛くなると言わざるを得ない。
 
 2.1においてはそもそも、覆されることになったスミスの思惑が十分な正当化を受けているとは言い難い。
これを言いだすときりがないのだが――というのも、基礎づけ的フォーマットを前提とすると、「十分な正当化の判断」が恣意的になるからだ。
また、仮定として日常的に容易に起こり得るような例とはとても言えない事例提示である。
さらに加えて、結局のところ採用される者は誰であれともかく、「十枚の硬貨をポケットに所持していた」わけであって、この命題をスミスは知っていたとは言えないだろうか?
偽命題「採用されるものはジョーンズで、コインを十枚ポケットに所持している」をスミスは真として「知っていた」のだから。
真命題「採用されるものはスミスで、コインを十枚ポケットに所持している」については知らなかったわけだが。
つまり、そもそも命題(e)(※ゲティア論文参照のこと)は最初から最後まで一貫した命題であったのか。
これには議論の余地があるはずだ。
 
 2.2について言えば、ブラウンに関する要素を抱き合わせにすることで知っていることと事実との差を生みだし、なおかつ命題真を成り立たせたわけだが、スミスはブラウンに関する要素を抱き合わせる必然性はないのだ、間違いなく。
居場所も知らない人間の要素を抱き合わせることに意味があるだろうか?
間違いなく、ゲティア本人以外にはなかろう。
このことが2.2のネックである。
確かにα:trueについてα∨β :trueは成り立つが、そのことはこのインチキくさい抱き合わせを正当化しはしないわけだ。
命題として存在しうるかどうかを疑われると言ってもいい。日常的に命題判断しているならばともかくのこと、そんな人間が存在するかどうか。

と事例をあげつらうのはこの程度にしよう。そもそも偶然の一致を持ってしなければ論じえない論文そのものの成立も疑われるべきところではあるが、
偶然の一致も存在しないわけではないからだ。


問題点は
・偶然の一致なくして成り立ちえない。言うまでもなく偶然を主体は人為的に操作できはしないし、知りえようもない。
 主体の正当化の際に切り捨てられている可能性であり、一般化するに不適当。


・正当化が成立しているかどうかの判断が困難、さらに基礎的な知に言及しなくては完全に基礎づけ主義の上での反証とできない。


・各事例において真偽判定はどう行われるのか。正当化されている間、それは主体に真であるはずなのだから。

といったところであろうか。



③その問題点の解決方法に関する提案、
一番目は簡単だが不可能である。命題の偶然真をとり除けばよいのだ。しかしそうすれば反証は成立しえない。
二番目はそもそも適当な判断者を考案しなくては考えられない。絶対真理の存在を仮定してみるのも手だが、正当化成立観測は非常に難しい場合がある。
三番目も二番目に同じだが、「信じられた偽命題は、偽であることが観測されていない状態では真」とすれば迂回できるかもしれない。もちろんこの場合にも反証として成り立たない。

という、事実上不可能とも言うべき提案にならざるを得ない。