死生観


重い話題が続くようですが、死生観について。
本当は重い話題なんかじゃないとは思いますけど。
これまたよそ様のブログネタにのっかっての更新、ということになります。
もっとも、過去に書いていないわけではないですし、いいかな。


もの書きとして、死生観をテーマにした文章、というのは過去に何回か書いてきました。
ブログの形ではありませんが。
正確に言えば、生物の死生観ではなく、無常観として取り扱ってきています。
やはり無常観という方向性から語ることが多かったので、ひとつ階層を落として、死生観というところを書いてみましょう。
もちろん、このブログに書かれている他の全てのことと同じように、偏った個人の主観ですし、自分は誰のどんな考えも否定することはありません。


簡潔にまとめてしまうと、人が生まれてから死ぬまでの過程を緩やかな「死」とみなすことに尽きます。
せいぜい100年足らずの「死」ですが、一般的な死の概念からすると少しだけ長いですね。


生あるものは必ず死ぬわけで、ひとつの生、という、始点と終点がある旅は、まとめて「死」とみなすことができます。
どんな生を生きたか、と見るのではなく、どんな死を死ぬのか、ですね。
死は、誕生の瞬間に始まるものなのです。
だから、自分がどのように死ぬのか、ということをよくよく考えたいとは思いませんか。
生理学的な死のことではなくて、一人の人生、イコールひとつの死として、ということです。


あなたは「死」なのであって「死」を生きているわけです。
良くても八十年くらい生きて、あなたの認識世界が消失したら、そこであなたという意識は終わり、与えられている短い時間を使い切って終了です。
死後に何かを残せたとしても、あなたがそれを見ることはありません。
ありとあらゆる死後の思想は、すべて生者のためのものです。
それらの思想は、死を安らかに迎えやすくするために処方されたものであって、死んだあとには何の役にも立ちません。


ではここで考えることはひとつです。
あなたが存在した意義はなんですか、と。
これまた簡潔に言ってしまえば、人生の目的って名声とか地位とか、あるいは財や富ではなくて、「存在意義を探すこと」だと考えています。
名声なんて、つまるところ他の人間にどう見られるかに過ぎません。
虚しすぎます。


あなたが死ぬところを想像してみてください。
この死は人生全体ではなくて、生理学的……つまり、食卓に並ぶ牛豚が屠られて肉塊となるように、あなたが肉塊になる瞬間のことです。
人生を振り返って、あなたはどう思うでしょうか。
その瞬間を想像できるのなら、今でもあなたは意義ある人生を送れるのです。


人はいつ存在しなくなるのか。
本当は、誕生から、存在しなくなるまでが「死」です。
いつ存在しなくなるのかについては、「青い鳥」に答えを見出すことができます。
深層心理のメタファーとも取れる、青い鳥を探す探求の旅のなかで、「思い出の国」を訪れた二人は死んだ祖父母と出会い、こんな言葉を聴きます。
「生者が忘れないでいる限り、私たちはこうして楽しく会えるのだ(要約)」と。
いわゆる、心の中に生きている、とか遺志継ぐものある限り死せず、とかいうことですね。
つながっていくいのち、ということでもあります。


それを逆から見れば、いつか、私たちは「全く」存在しなくなるわけです。
太古の誰か市井の人びとが、リアルな人間としては全く現代人の認識に存在し得ないように。
情報レベルの無存在、ここまできてやっと、ひとつの死は終焉を迎えられるのですね。
そして、一人の人の存在意義は、ここで始めて問うことができるわけです。
無存在のものに存在意義はありませんから、もはや無意味なことではありますが。


でも、幸いなことに、私たちは未来を考えて生きることができます。
人間だけに許された特権ですから。
つまり、前もって存在意義を付与しておいていいわけです。


すべての読者様がよりよい「死」を生きることができるよう祈りつつ。


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