「写真ノ話」の話


飽きもせずに写真の話ばっかりかよ、と思われた皆様ごめんなさい。
以前はそりゃあいろいろ書いてたんですがね。
今週は、カメラがないためにお題「秋のおいしいもの」も書いてません。
いや、写真ナシで書けよって?ごもっとも……。


で、今日のエントリーはタイトルを荒木経惟氏の同名の著書にお借りしている。
本のタイトルを借りるとエントリーのタイトルを考えないでいいのは楽ですよ。
下手すると内容まで借りちゃったりして。
いや、冗談です。内容はまったくのオリジナルです。


時折お邪魔させていただく写真関係のブログで、「写真」で真を写したい、との話をお見かけしてのお話。


「写真」と呼ばれるようになったわけは、言うまでもなく、真を写すほどのリアリティをそこに感じたからなんですね。
英語ではPhotography、直訳すると「光の画」です。
でも、写真を見た江戸時代の人は「写真」を造語して訳語にあてた。
これは大いなる間違いでもありましたが、彼らがどれほど、カメラと、出てくる絵に感動したかを伝えています。
そのころの写真は当然モノクロなわけです。教科書の坂本竜馬のアレです。
人間は言うまでもなくカラーでものを見ているわけで、モノクロなんて肉眼の見た目とは全然違いますよね。
モノクロの写真を現代の人が見て、これは見た目どおり「真」を写した風景だ、なんて言うはずはありません。
では、彼らは何と比べて「真を写す」と言ったのか。
それは絵画です。


ここで少しの間、話を絵画に移しましょう。
絵画の目的のひとつは写実性でした。
言うまでもなく、絵画の目的が写実性だけだったなら、とうの昔に絵画は消えうせていたでしょう。
カメラ オブスクラが発明されたのですから。
でも、絵画は消えうせませんでした。
それは絵画に、写実性だけではない、審美的芸術的要素があったからにほかなりません。


逆に言うなれば、「写実性だけを目的にすることが果たして文化足りえるのか」という話になってきます。
単写真よりもHDR合成写真のほうが、映像のほうが、そして3D映像のほうが写実的だからです。


写真で見た目どおりの色と明るさで撮影できる範囲は非常に狭いものです。
明るいほうにあわせればシャドウは真っ暗。暗いほうにあわせればハイライトは真っ白。
さらに、デジカメでは、CCDが取得したデータから設定感度分増感して現像し、カメラメーカーの絵作りに従って画像処理エンジンがノイズを消しシャープをかけ彩度を調整し補正分の色を塗り、ホワイトバランスをカメラが判断した色まで持っていってはじめて、背面液晶で見ているJpegサムネイルができているわけです。
もちろん、再現できる色数はRGBプロファイルが縛るbit数を超えることはできません。
人間の認識できる色は無限に近く、この時点でCCDは大きすぎるハンデを抱えています。


写真は、どこまで自然に見えたとしても贋物でしかないのです。
証明写真、あれも本人確認できるとはいえ、他人が見ているあなたの顔とはまったく違うでしょう?
これまで証明写真を撮影した枚数は相当のものになりますが、撮って出しで渡せたことなんて絶対にありません。(デジタルの話です)
「写偽」というタイトルを見せていただいて、うまい、と思いました。
でも、一見自然な写真も、実際には「写偽」なんですね。


と、ここまでが前置き。
前置き長っ!!?


実はここまでの話は、特に「真」を写そうとすることを否定するものではありません。
もう一度絵画を振り返ってみましょう。
今でも、写実的な絵を描く人はいらっしゃいますよね。
コレが答えです。
何のインスピレーションも沸かずに写生を始める人はいません。
写実的な絵を描く人々は、現実に忠実な絵を描くことだけが目的なのでしょうか。
心を動かされた光景を、キャンバスの上に残す、そういうところに目的はあるのではないかな、と思います。
今、重要なキーワードがでてきましたね。
「心」


文化性のよりどころは、創作発表の真髄は、心を動かす、というところではないでしょうか。
写真に文化性があるとしたら、それはやはり、心を動かそうとしている、というところでしょう。
もちろん、何を持って心を動かそうとするかは人それぞれです。
モノクロを選ぶ人あり、前衛的な抽象写真もあれば、精細な風景写真もあるでしょう。
記録用写真だけが写真ではありませんから。


その中で、自分が感動した部分を素直に切り取って、できるだけ自分の見た現実に忠実に見せたい、これは手法としてなんら間違っていません。
ただ思考としては、どうなんだろうな、という部分があります。
伝えたいのは「自分が見た風景の真実」ではなく、「自分が風景を見て心のうちに起こった、感動の真実」でしょう。
感動を共有したい、というのが本当じゃないかな、と思います。
風景を共有したい、というのと、感動を共有したい、というのは、天と地より大きな差があるんですね。
で、あれば、必然的に絵作りは変わってくるのではないでしょうか。
色味やシャープネスを派手にいじった画像が受け入れられないのは、自分の見た目と違うから、ではありません。
感動を伝える邪魔でしかないから、であるべきでしょう。


風景写真家がPLフィルターやRVP(ベルビア50)を使うには、それ相応の理由があるのです。
いい加減なフレーミングはしないのにも、同じ理由があります。
絞りを開けてモデルの前後を大きくぼかすのも、同じ理由です。


小難しい話でしたか?
なにも難しいことはないんです。


「しゃしん」は、実は「写真」ではなくて、「写心」なのです。
ただ、それだけ。
こんな長い文章も、集約すればひとこと。


写真の「真」は、心の「真」



.