星野道夫著作集


親バカにもなろうというもの。



いま、星野道夫を読んでいる。
写真集ではなく文章のみ。
96年に死去、だからもう14年前になるのか。


星野さんの文章はその写真に似ている。
基本的にはあたたかいし、といって厳しさを隠すこともない。
随筆ということになるのだろうが、結構な量がある。
この自然写真家がこれほどの量の文章を残していたことに驚いた。
だが、それでもまだ少なく感じるのは、その稀有な内容によるのに違いない。
こういう表現はどうなのかな、とは思うが、写真にせよ文章にせよ彼の全体を貫くテーマは直に伝わってくる。
生命……広義での、命の循環の流れ(イニュニック)に対する深い愛、これを感じずにはいられない。


ちゃんと愛で撮りたいと思う。
わが身を省みて。
そういうものがなくなると、何を撮っているのやらわからなくなってしまう。
今回は文章が主になったが、星野さんの写真は昨日沢木耕太郎で述べたような、「うまくないけれどいい写真」ではない。
いい写真で、しかも非常にうまい。
これは写真を見れば誰でも簡単に理解できることである。
「伝わる」はずだ。
もちろん文章のクオリティも高い。
こちらのほうは「うまくないけれどいい文章」である。
「生きる者と死す者、有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの身体は、ゆっくりと僕の中にしみ込んでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる」
この文章というのは、経験しなくては書けない。
スーパーのグラム100円の鶏肉をパックで買ってくる者には書けないのだ。
(本当はグラム100円だろうが、それを感じて欲しいが……)
ところがこの文章を読めば、それを読者も体験できる。
朝、黄金の陽光の中、繁みに立つムース。
銃声、そしてくずおれ、自然の中へ帰っていくムース。
村人皆の胃を満たす、スープの姿になったムース。
そうして前述の文章を読んだとき、あなたはムースであり、ムースはあなたである、と。


必ずしも真に受けなくてもいい。
でも、できれば真に受けて欲しい。
それはことばの力であって、ことばが意味を持てるとしたらまさにそういうところにおいてなのだ。




話は変わって……。
先日、面接を受けて倍率がどうの、という話をちょっとだけ書きました。
今日、そこから電話があって、「ちょっと優秀すぎてもったいない、他の職を探してみるのも悪くないかと思う」と。
初め何のことやらわからなかったのですが、面接の時学力試験やら教養試験やら適性試験やらを受けた結果が大変よかった(らしい。自分は結果を知らない)、と。
で、正社員の総務や管理者ならともかく能力を生かせない生産ライン工場の末端作業パートで雇うのはどうも……みたいなことを言われまして。
旧帝大の経済学部というのもひっかかったのかな。でも経済事情で3年中退、そのまま写真館勤めなのに。
結論としては「辞退するか、ちょっと考えて見ますか?」と言われて。
個人的には辞退というのは考えませんでしたし、不採用通知というわけでもなかったので、
ひとまず「考えさせてください」というお答えを。
月曜日にお返事です。


辞退というのは未だに考えてません。
しかし、こういう連絡をもらったのは初めて。
意図が汲めずちょっとびっくり。
といっても、能力がもったいないとか言われて、じゃあ生かせる求人があるのか、って言ったらないですから。
自分の能力がもったいないとかいう思い上がりが許される失業率じゃない。
特に今年は現役生でも無い内定が非常に多いんですよ。
面接を受けてる時点でそこの仕事内容で満足してるのに、早まった判断のように言われるのはなんだかなあ。
もったいない?じゃあ、正社員で雇ってくれますか?って話ですよ。


ぱーとでいいのでだれかやとってくださいませんか(笑)
ばしゃうまのようにはたらきますから(笑)